2009年4月30日木曜日

芝居のこころ -後編-

前回のつづき

 「私は、そうしたことを芝居で再現し、ビデオに撮りたいのです。
 一方、現在の演劇は、作者の台本に従って舞台の設備、装置、証明、音楽などの効果と演出者の監督の下に舞台の上で俳優が演技をして、観客に見せる総合的な芸術活動のように私には思えるのです。
 つまり、見せる側と見る側が、区切られた芸術という忍術のような気がするのです。こうなると、「ボク、作る人」の側から言うと、「いかに観客、言いかえれば金(かね)を集めるか」というサモシイ心にともするととりつかれ、「ワタシ、見物する人」の側は、「ただ面白ければいい」というその場かぎりの、なおざりな、享楽主義に走りやすくなるのではないかと、心配するのです。

 明治になって、江戸の芝居の心を捨て、西洋の、いわゆる演劇を金科玉条として取り入れたのですが、そのときに、もともとの西洋演劇の基底に流れていたキリスト教などの西洋精神を抜きとった上べの形のみを輸入?したキライがあります。
 その結果、「形さえ整えばいい」という、いわゆる「かっこいい」演劇を、ほんとの演劇と錯覚してしまったのではないかと、私には見えるのです。 
 そうなると、ただ形を整えるために、例えば夏や秋の実りの文化祭に向かって一心不乱に猛練習の突進を続ける軍隊になってしまうのではないかと思いたくなるのです。つまり「入学するまで、青春も正月もない」「老後のために」式の幸せ先送り人間になるような気がして寂しいのです。

 江戸の芝居は、作る人、する人、見る人が一体になって、いまを楽しみ、人間関係を一番大事にして、この地上に極楽を作った世界の演劇史上に類例のない生命活動でした。」 -終-
全文・浦島太郎の残し文

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